慶応4年赤浜村御用留に記された、高崎藩関連の御用留について紹介します。検討には主に『高崎市史』[※1][※2][※3]を参考にしました。
慶応4年御用留には、高崎藩の人馬継立の先触れが12件記されています。以下に掲載順に並べています。
また、「慶応4年赤浜村 御用留トップ」の「高崎藩関連一覧」からも[« 前][次 »]で順番に参照できます。
内容は、高崎城内と江戸屋敷・野火止陣屋間の人馬継立依頼です。
御用留に登場する高崎藩士を一覧にまとめてみました。
並びは『高崎市史 資料編5』の「57 安政六年八月松平家分限帳」[※2-384~400頁]と、「58 明治三年高崎藩職員録」[※2-470~490頁]の席次順となっています。「20 遊佐六郎左衛門」は、慶応4年(1868)当時は上位の席次と考えますが、分限帳・職員録ともに名前がなかったので、一覧上では20番目となっています。遊佐六郎左衛門に関しては一覧の後で補足しています。
なお、例として「矢嶋東作」は御用留では「矢島」「矢嶋」の両方で記されますが、一覧では『高崎市史』の姓名表記に統一しました。
NO | 氏名 | 安政6年8月 松平家分限帳 |
明治3年 高崎藩職員録 |
その他引用 | 掲載 御用留 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 浅井吉左衛門 |
小性頭 高480石 |
[3月晦日] | ||
2 | 神谷弥平 |
持槍奉行席 高110石 |
家令 病死、解官 |
[5月21日] | |
3 | 横濱鉄四郎 |
馬廻 高220石 |
[4月13日] | ||
4 | 瀬木伴右衛門 |
広間番 高50石二人扶持 外勤金1両2分 寺社方御右筆勤中被下 |
[4月1日] | ||
5 | 浅井権十郎 |
表小性 銀10枚二人扶持 |
[5月21日] | ||
6 | 生駒元碩 |
医師席 五人扶持 |
第五等官 定禄50石 中等医 |
[3月晦日] | |
7 | 田中繁之助 |
近習中小性 金7両二人扶持 |
[4月13日] | ||
8 | 代田一作 |
中小性 金7両二人扶持 外勤金1両2分 勤扶持二人扶持 月番御右筆頭取勤中被下 |
准三等官 定禄60石 会計判局事并 月給1両 |
[3月晦日] | |
9 | 斎藤小太郎 |
第四等官 定禄50石 文武助教 権曹長 月給3分 |
[3月13日] | ||
10 | 飯野金八 |
並中小性 金7両二人扶持 |
[3月晦日] | ||
11 | 鈴木哲八 |
供小性 金5両二人扶持 外勤金1両 勤扶持一人扶持 御春屋方勤中被下 |
[5月21日] | ||
12 | 浅見八十五郎 |
徒士 米8石二人扶持 内2石勤料 外勤金3分 勤扶持一人扶持 御納戸役手伝勤中被下 |
[3月11日]
[3月13日] |
||
13 | 馬場庄次郎 |
徒士 米8石二人扶持 内2石勤料 外勤金1両 御作事方下役勤中被下 |
准五等官 定禄40石 会計出納司 月給3分 |
[3月13日] | |
14 | 矢嶋東作 |
徒士 米8石二人扶持 内2石勤料 外勤扶持二人扶持 野火止詰御代代官勤中被下 |
准五等官 定禄40石 家従並 |
[3月15日]
[3月24日] [4月1日] [4月5日] [4月10日] [4月12日] [4月13日] |
|
15 | 大瀧章治 |
小役人 米8石二人扶持 内2石勤料 外勤扶持二人扶持 御代官勤中被下 |
准五等官 定禄40石 番士 |
[5月17日] | |
16 | 林源四郎 |
小役人並 米8石二人扶持 内2石勤料 |
第六等 定禄12俵 会計出納司并 |
[3月11日] | |
17 | 甘田正吉 |
第六等 定禄12俵 会計出納司并 |
[3月晦日] | ||
18 | 西久保新六 |
第七等 定給13俵 月給3分 会計調役并 |
[3月11日] | ||
19 | 大木森次郎 |
第七等 定給13俵 政務下局筆生 月給3分 |
[5月21日] | ||
20 | 遊佐六郎左衛門 | ※明治元年(1868)8月20日の公議人一覧に「高崎藩 遊佐六郎左衛門」の名前あり(『復古記』第119巻) |
[3月15日]
[3月24日] |
||
21 | 豊島作之助 | [4月5日] | |||
22 | 伝田源四郎 | [4月10日] | |||
23 | 矢島直紀 | [4月12日] | |||
24 | 矢島春高 | [4月12日] |
御用留の慶応4年(1868)は、安政6年(1859)分限帳の9年後、明治3年(1870)職員録の2年前。「20 遊佐六郎左衛門」「21 豊島作之助」「22 伝田源四郎」「23 矢島直紀」「24 矢島春高」の4名は、分限帳・職員録が編まれた時期に藩政を離れていたと考えますが、詳細は不明です。
先触に登場する藩士のなかで「20 遊佐六郎左衛門」「1 浅井吉左衛門」「2 神谷弥平」の3家は、『高崎史料集』の「四 家老以下諸役人系図 寛文6年(1666)~嘉永4年(1851)」[※3-80~115頁]を参照すると、藩の重職を担った家名であることがわかります。
■遊佐六郎左衛門成職
・[御持鑓奉行]明和3年(1766)1月11日
・[御旗奉行席]明和4年(1767)1月15日
・[御用人] 明和6年(1769)1月15日
・[御奏者役席]安永3年(1774)7月15日
・[御番頭] 安永7年(1778)6月23日
・天明4年(1784)2月25日依願隠居
■神谷弥平明伴
・[御用人席]寛政 4年(1792)8月16日
・[御小性頭]寛政10年(1798)1月
・[御奏者役]寛政13年(1801)1月15日
・享和2年(1802)6月14日死
■浅井吉左衛門真善
・[御持鑓奉行席]文化10年(1813)1月15日
・[御小性頭] 文化11年(1814)1月15日
・[御奏者役] 文化12年(1815)1月15日
・[御番頭席] 文化13年(1816)1月15日
遊佐六郎左衛門は隠居、神谷弥平は死去しているので、御用留に登場するのは明らかに子孫。また、浅井吉左衛門真善の最後の席次は「御番頭席」の重責、安政6年分限帳は「小性頭」と格下なので、やはり子孫と考えられます。
『国史大辞典』(吉川弘文館)・『世界大百科事典』(平凡社)の「高崎藩」の項を中心に、高崎藩の歴史を概観したいと思います。
天正18年(1590)、上野国箕輪城12万石に封じられた井伊直政(いい-なおまさ)が、幕命により慶長3年(1598)中山道に沿う旧和田城に移城して立藩。このとき高崎と改めたのが始まりと伝わります。
その後、城主交替を重ね、元禄8年(1695)下野壬生から大河内(松平)輝貞(てるさだ)が入封、輝貞は将軍綱吉の側用人で、所領も加増されて7万2千石となったが、綱吉の死後、宝永7年(1710)越後村上に移封。享保元年(1716)吉宗が将軍となると、翌2年に輝貞が再入封し、以後大河内氏が輝規(てるのり)・輝高(てるたか)・輝和(てるやす)・輝延(てるのぶ)・輝承(てるよし)・輝徳(てるあきら)・輝充(てるみち)・輝聴(てるとし)・輝声(てるな)と、明治2年の版籍奉還まで10代170年間在封しています。
高崎藩の江戸上屋敷は、現在のJR有楽町駅辺り、江戸城本丸と目と鼻の先にありました[※4-16頁]。
高崎藩には、一ノ木戸領(現新潟県三条市)・銚子領(現千葉県銚子市)・野火止領(現埼玉県新座市)の3カ所の飛び領地が存在しました。御用留に登場する「野火止陣屋」の成立について触れます。
武蔵国新座郡の野火止(のびどめ)領は石高合計5カ村(大和田町・野火止宿・北野村・菅沢村・舘村)2,000石という小さな規模である。野火止にある平林寺は大河内松平家の菩提寺として寛文2年(1662)、武蔵国岩槻(現埼玉県岩槻市)から移築され11万坪の広大な敷地を持ち、高崎藩主大河内松平家にとっては先祖からの墓所として重要で特別な意味を持つ場所であった。
宝永元年(1704)12月、野火止を支配地としていた柳沢吉保(やなぎさわ-よしやす)は11万2,000石の川越藩主から甲府藩主15万1,200石に転封した。変わって秋元喬知(あきもと-たかとも)が甲斐国谷村より5万石で入封した。この時、野火止領5カ村は川越藩領とはならず、高崎藩主松平輝貞に与えられた。これは、「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱(まつだいら-のぶつな)の孫が松平輝貞にあたることや、柳沢吉保の娘婿が輝貞であり、将軍綱吉の信望が厚かったためと考えられています[※1-59頁]。
平林寺に隣接して10万坪ほどの広大な敷地に野火止陣屋が創設された。この野火止陣屋には、慶応元年(1865)の例では、代官1人・徒士目付1人・留役2人・医師1人・米見2人・足軽3人がいる。また他に廟所担当役人が7人いたことも知られている。野火止陣屋の役人は江戸に近いので江戸屋敷や幕府の法事、平林寺に関わる御用などがあり特別な勤務内容であった。また、野火止領の5カ村が連名で軍事用の労働力の調達としての「軍役夫人足」を軽減してくれるよう陣屋に願い出ていることから、領民も江戸への奉仕が多かったようだ。幕府に近い譜代であること、江戸まで直線で20km程度と適度に近いという立地条件から発せられる農民の召集の増加はかなりの負担であった[※1-59~60頁]とあります。
御用留当時の高崎藩は戊辰戦争に呑み込まれる渦中にありました。
『高崎市史』に、中山道の諸藩に勤王の立場に付くよう説得する使命を帯びた尾張藩士の佐久間嘉計雄(かけお)らと、慶応4年(1868)2月15日に前橋で会見した高崎藩役人は、勤王の証書を提出した[※1-839~840頁]とあります。御用留に先触が記され始める3月11日には既に官軍側に付くことが確定していたようです。
3月8日に安中宿から高崎に向かう東山道総督府を出迎えるため高崎藩主の松平輝声は、小幡藩主松平忠恕(ただゆき)と共に常盤町(現高崎市常盤町)まで出頭、岩倉総督に謁見を願い出て許され、総督府は石上寺に本陣を置きます[※1-844頁]。12日、輝声は「勤王の実効」として軍資金1万両、鉄砲20挺と弾薬1、000発を総督府に献上[※1-846頁]。先触の冒頭[3月11日]高崎城内より江戸屋敷までの内容が、官軍に1万両を献上した12日に、会計に長けた林源四郎・西久保新六を江戸屋敷に向かわせています。憶測ではありますが、何か意味深な役目を感じます。
4月22日、東山道総督府は、小栗上野介に抵抗の意があるとして討伐の命令を発します。当初高崎藩は、小栗討伐に難色を示しましたが、出兵が「勤王の実効」を証明する手段であることを知った高崎藩は命令に従います。高崎・吉井・安中の三藩が権田村(現群馬県高崎市倉淵村権田)に出兵、小栗を捕らえ、閏4月6日に総督府の指示で斬首しています[※1-852頁]。
三国峠に出動している会津藩兵討伐で、閏4月17日、高崎藩にも出動命令が下り、沼田・三国峠・般若塚・戸倉など各地を転戦。高崎城に帰藩したのは、一月半後の6月7日のことでした[※1-853~862頁]。
官軍への傾斜を強めていった高崎藩ですが、5月に入ると42人の藩士が脱藩。彼らは後に彰義隊に加わり、5月15日の上野戦争の際には高崎藩高勝隊と名乗って参戦しています。この事実から、高崎藩も朝廷か、幕府かについての去就は、この時点では定まっていなかったと考える向きもあります[※2-735頁]。
人馬継立の先触れは、高崎藩兵が各地を転戦している最中の5月21日付を最後として、それ以降の御用留には記されていません。
[引用資料]