西上州世直し騒動と寄居寄場騒動


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1.幕末の世直し騒動

古文書に取り組む際、そこに何が書かれているかと同時に、何が書かれなかったのかを解読することが大事だと聞いたことがあります。

御用留の記述が始まる慶応4年(1868)年初頭は、赤浜村に大きな影響を及ぼしたはずの「西上州世直し騒動」「寄居寄場騒動」がぼっ発しています。特に「寄居寄場騒動」は赤浜村を直接巻き込んだ大騒動ですが、御用留にその件についての具体的記述は見当たりません。

幕末の世直し騒動を検討し、赤浜村を取り巻く当時の社会情勢を知ることで、御用留への理解をより深めたいと考えます。

検討には主に『国史大辞典』(吉川弘文館)、『日本歴史地名大系』(平凡社)、『寄居町史』[※1][※2]、『高崎市史』[※3]、『群馬県史』[※4]を参考にしました。


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(1)幕末の世直し意識の登場

『国史大辞典』の「世直し」の項によると、年貢などの封建的負担の軽減、国産専売制反対などの経済的自由の要求を全面的に押し出した江戸中後期の百姓一揆とちがって、幕末期に登場する世直しは、さらに進んで社会的、政治的、経済的な変革を願望する一揆であった。早く天明期の一揆のなかに世直しの萌芽を見出す見解もあるが、一揆のなかに世直し意識が本格的に登場するのは天保期以降であり、特に天保7年(1836)に起きた甲州騒動・三河加茂一揆が画期的な意味をもったとあります。

『寄居町史』でも、翌天保8年(1837)に、大坂で大塩平八郎の乱があり、それに呼応した上州舘林藩出身の国学者、生田万(いくたーよろず)が越後柏崎で救民のため代官屋敷を襲うという事件が発生。これまでの百姓一揆の枠をこえ、政治のあり方を正すことを主要な要求とし、大勢の民衆を巻き込んだ大規模な反乱となっていった点が特徴的で、このような状況は年を追って深刻化こそすれ好転する兆しはなかった[※1-657頁]と指摘します。

安政5年(1858)の日米修好条約の調印により、翌年神奈川・長崎・箱館の諸港が開港され、先進諸国との交易がはじまると、未熟な生産段階にあった日本経済はたちまち破綻しはじめ、国内必需品の国外流出や諸物価の急激で異常な高騰が起こった[※1-657頁]


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(2)武州一揆

赤浜村が位置する地域で画期となった騒動が、数多くの歴史書・市町村史でも取り上げる、慶応2年(1866)6月13日~20日に起こった「武州一揆」です。


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①慶応2年の社会状況

慶応2年(1866)は天候不順で不作の年。3月10日(新暦4月24日)に夕立があり、おおいに寒くなり、翌11日朝は大霜で麦や木の芽に大損害を与え、八十八夜は又大霜で麦・菜種・桑・蚕は大被害。5月15日も大雨、大水が出、この大雨のため水田地帯は米の不作、稲の流失等を招来し、養蚕地帯では現金収入の源泉を絶たれるなど農山村に大打撃を与えた。不順な天候はまだ続き、6月中はほとんど雨、大出水、山間部への物資の移動も滞り、米をはじめとする穀類の値段は高騰した[※1-658頁]

この年、幕府は長州藩へ再度の出兵を行った。前年の慶応元年には、遠征のため江戸の警備が手薄になるということで兵賦二大隊の取立てが行われ、関八州の村々では高1,000石につき兵賦1名の割で徴用され、これを金納する村々においては村入用の膨張の上に臨時出費に悩まされることとなった。また、この長州再征のため、穀屋らの米の買占め売り惜しみが助長され、天候不順による不作とあいまって米をはじめとする諸物価の異常な高騰を招いた[※1-658頁]


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②武州一揆概要

『国史大辞典』の「武蔵国天領・川越藩領他慶応二年一揆」の記述が長いながら簡潔にまとまっているので、以下に引用します。

[武蔵国天領・川越藩領他慶応二年一揆]

現在では「武州一揆」「武州世直し一揆」「武州世直し騒動」などとよばれる。

この一揆は慶応2年6月13日(太陽暦7月25日)武蔵国秩父郡上名栗村の百姓らによる同国高麗郡飯能村の穀屋・酒屋などの打ちこわしをもって開始され、同月19日の潰滅まで、わずか7日間のうちに、武蔵国秩父・高麗・入間・新座・比企・多摩・足立・大里・埼玉・男衾・榛沢・児玉・那賀・賀美・豊島の15郡、上野国緑野・甘楽の2郡を席巻した。

すなわち、東は中山道筋、南は多摩川流域、北は上・武国境沿いに及ぶ関東西北部一帯の範囲に展開した。

打ちこわされた家屋は520軒(2百カ村)、一揆勢として参加した民衆は10数万余人を予想させる。この打ちこわし参加者は各村から村単位の人足動員という方法で組織され、一揆勢の展開に伴い雪だるま式に激増した。

一揆の指導者(頭取)は各地に存在し、打ちこわし対象者を選定し、計画的に指揮した。たとえば一揆発端の上名栗村では、大工の紋次郎、桶屋の豊五郎、多摩郡下成木村組頭喜左衛門、同郡二又尾村百姓槇次郎らが頭取として活躍した。

この一揆の行動には、対象者によって二つの形態があった。すなわち、一つは一揆勢にとって完全な敵対者であり、打ちこわしにより潰滅あるのみとするもの、他の一つは一揆勢の要求を受諾し、実行を確約すれば、あえて打ちこわさないとするものである。

前者は一揆要求を拒否した豪農、悪質な高利貸商人、それに横浜貿易に携わっている浜商人であり、特に浜商人は貿易により莫大な利益を独占するとともに、物価騰貴の元凶と目され、横浜開港場とともに一揆勢の激しい攻撃目標となった。

後者は一揆勢に屈服し、その要求を受け入れた豪農であり、彼らは、受諾書を一揆指導者に提出し、門前や村境などに受諾項目を掲示した。


『寄居町史』[※1-658~659頁]に「事件発祥の秩父郡名栗村は谷沿いにわずかの耕地が開けているが、そられは少数の有力農民ににぎられ、ほとんどの貧農は彼らの小作か農間稼ぎで生計を立てねばならなかった。またこのような山地においても養蚕収入は生活の根幹を支える重要なものであったが収入の見込は立たなかった。またこのような状況の中で炭焼・炭背負・炭俵編み・日雇・木挽・杣日雇・大工・鍛冶・筏などわずかな賃銭を米に代えねばならぬ者にとってはまさにこの年は、生活の極限にまで追い込まれた年であった」と、一揆の要因について記しています。

寄居寄場組合の大惣代であった、末野村の今井九兵衛は「是ハ岩鼻御郡代木村甲斐守様江執入、浜糸運上願発願人と申事故、諸般百姓難儀および候故打潰候趣申触」という具合で、絹糸商・横浜商いをする商人やその流通機構にある者、またその推進者・助力者などに対しては特に徹底した打ち壊しが行われた[※1-665頁]とあります。この今井九兵衛が後の「寄居寄場騒動」の要因にも関わることになります。

また、慶応4年御用留の冒頭 [1月13日]討薩の表 触書 の差出人である関東取締出役の木村樾蔵が、武州一揆鎮圧のため各所に転戦したことが『寄居町史』[※1-683~684頁]に記されています。


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(3)出流山事件

慶応3年(1867)11月29日~12月12日に発生した、出流山事件(いずるさん-じけん)は、農民による一揆・世直し騒動ではありませんが、この事件での農兵銃隊取り立てが後の「上州世直し騒動」「寄居寄場騒動」の引き金の一つになっています。

『日本歴史地名大系』(平凡社)の「岩鼻代官所跡」の項に「慶応3年12月、下野国出流山千手院(現栃木市)で討幕の目的で蜂起した薩摩藩邸浪士隊の攻撃には、新町宿組合の猟師などを中心とする鉄砲隊が、代官所常駐の上州掛り関東取締出役の渋谷鷲郎たちの指揮により圧勝した」と記されています。


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2.西上州世直し騒動

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(1)農兵銃隊取り立て

西上州世直し騒動の大きな引き金となった、農兵銃隊取り立てについて、『高崎市史』[※3-835~840頁]の記述を中心に紹介します。

慶応4年(1868)1月15日、岩鼻陣屋に在陣する関東取締出役の渋谷鷲郎が、出張先の熊谷宿に管内組合村々の代表者を招集し、農兵銃隊の取り立てを命じました。

吾妻郡村々に回った組合村大惣代の廻状に「関八カ国の御料・私領・旗本領を問わず、高100石につき1人ずつの農兵銃隊の取り立て」「給金として1日につき銀10匁を支給。但し食費などは自己負担」「編成した農兵銃隊は関西に出兵することはない、という確約を得ている」という内容が記されています。

しかし、この計画が明らかになると、銃隊取立の中核となる緑野・群馬・那波3郡の農民は、物価騰貴による生活不安、銃隊編成にともなう村入用の増加などを理由にして、村役人の反対を押し切った上で計画即時中止の願書を岩鼻陣屋に提出した。これを皮切りにして上・武州の各地から銃隊取立反対の願書が、相次いで出されたとあります。

銃隊取立を側面的に支援した村役人は「戦死した場合は、見舞金として100両を遺族に渡す」「戦地に出動した場合の給料は、規定の2倍、戦死した場合は遺族に相続金として200両、首尾良く凱旋した場合は褒美として100両を支給」「出兵中の農作業は村の負担で行う」という条件を提示した組合村も見られ、銃隊取立に応じるように試みたが、農民の反対運動は少しもおさまらなかった。

業を煮やした渋谷は銃隊取立をあくまで強行すると言明した。2月4日、農民代表は渋谷との交渉を打ち切り、銃隊取立に積極的に関与している新町宿組合村の大小惣代らとの交渉に切り換えた。席上農民代表は、出流山討幕蜂起鎮圧の際出動した農兵銃隊に関する会計の不明瞭さの釈明を要求した。次いで、今回提示された農兵銃隊取立計画の唐突さと無謀さを指摘し、計画の撤回を渋谷に進言せとよ迫った。交渉は難航したが、大小惣代がすべての公職を辞職すること、すなわち銃隊取立計画に関与しないことを約束したので終わりを告げた。

2月15日、岩鼻陣屋は農兵銃隊取立撤回の触書を村々に回した。


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(2)蜂起

2月23日の夕刻、多胡郡神保村(多野郡吉井町)の辛料神社に集結した農民は、村々に世直し廻状を回し参加を呼びかけた。それに応じた農民およそ2,000人が、辛料神社の境内で気勢を上げて世直しを決議し、竹ぼらを吹き立て、鉦や太鼓をたたきながら松明を先頭にして吉井宿に向かった。このようにして世直し一揆が始まり、各地で施米や施金、あるいは質物無償返還の要求が、豪農や豪商につきつけられ、拒否する者は打ちこわされた[※3-206頁]


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(3)拡散

『国史大辞典』の「上野国天領他慶応四年一揆」の項に記される、一揆勢拡散の様子を以下に引用します。

[上野国天領他慶応四年一揆]

2月23日夜、神保辛科森(多野郡吉井町)に多胡郡の百姓5、60人が寄り合い、不参加村へは焼打ち威嚇による参加強制の廻状を発して、大沢川下流の塩川村蚕種屋をまず打ち毀した。それより吉井宿へとって返し、同町で問屋をはじめ9軒が打ち毀された。

これを皮切りに一揆は周辺村々に波及し、東は翌24日、黒熊村(吉井町)・南大塚村(藤岡市)など打ち毀しつつ、同日夜藤岡町の各所で12軒打ち毀し、隣村中栗須村(同)では居宅に火を掛けて焼き払い、さらに緑野郡新町宿では役人宅22軒を打ち毀したところへ、高崎藩兵がくり出されて、一揆は散乱した。

一方、西へは吉井宿から辛科森へ戻った一揆勢が翌24日夜、天引村(甘楽町)下平で紙屋など2軒を打ち毀し、七日市町(富岡市)まで押し寄せ、同所では丸一屋を領主(前田氏、1万石)の手で打ち潰させ闕所にさせた。

再び甘楽郡富岡町へ戻って打ち毀し、同地では7軒中3軒が放火された。富岡近在の村々を打ち毀した一揆勢はさらに同郡一ノ宮町(富岡市)へ移り、「女屋弐拾軒潰し、問屋旅籠もてき(茂木)都合弐拾軒程潰し」た。

かくて富岡・一ノ宮・七日市の「在々迄富家・酒造家・横浜商人・役人等、兎角有福ニ暮し居候者、又ハ平日怨れ居候者ハ不残打毀」された。一ノ宮で一揆勢の再結集があり、ここで三手に別れて、一手は再度東へ田篠村(富岡市)へ向い、一手は西進して甘楽郡下仁田町へ入って打ち毀した。

この勢いはさらに西進して国境の内山峠を越えて信濃国(長野県)佐久平へ入り(3月11日)、佐久地方の各地で打毀しを展開したが、信濃の岩村田・田野口両藩兵により撃退された。

もう一手は北上して碓氷郡に入り、西上磯部村(安中市)では名主宅を放火炎上、東上磯部村(同)でも豪農を焼き打ちして隣人宅も類焼させるなど、打毀しにとどまらず焼打ちもみられた。さらに原市から安中城下(藩主板倉勝殷、3万石)に迫ったが、ほかからの別の一揆勢ともども撃破された。

なお中山道筋では、甘楽郡板鼻宿(安中市)や碓氷郡松井田宿でも打毀しが起きている。


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(4)小栗上野介への攻撃

西上州世直し騒動で特異な出来事と考えるのが、小栗上野介への攻撃です。

朝廷方に徹底抗戦を主張する陸軍奉行ならび、勘定奉行兼帯の小栗上野介が主戦論の故をもって罷免された後、3月3日に知行地である権田村(現:群馬県高崎市倉淵村権田)の東善寺に入った。糸改印制の施行で多額の運上金を賦課し、ならびに農兵銃隊取立の立て役者でもある小栗を攻撃するため翌4日、権田村に向かった世直し勢は、東善寺を包囲して小栗を攻撃した。しかし、戦術にまさる小栗は、鉄砲などを撃ちかけ、いとも簡単に撃退。世直し勢に数人の死者と数多くの怪我人が出た。鉄砲で農民を撃ち殺したことは大きな波紋を広げ、後に小栗の身辺に厄災となって降りかかってきた[※3-835・841・843頁]

『幕末社会』(須田努)で「無頼・無宿を含む武装した世直し勢が幕府高官を襲撃し戦闘に及んだのである。前代未聞の出来事であった」[※5-213頁]と指摘するように、世直し勢によって出現した世の変わり目を感じさせる出来事といえます。


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(5)岩鼻陣屋の明け渡し

岩鼻陣屋明け渡しについては、『高崎市史』[※3-846~847頁]に詳しいので、以下に引用します。

3月8日、東山道総督府が高崎城に入り、大名の動向も決定的となったとき、岩鼻陣屋役人はすべて江戸に引き上げることにした。

10日朝、陣屋元締の中野道之丞は、岩鼻村、ならびに台新田村の役人を呼びだし「今般いろいろな事情があって、陣屋を官軍に明け渡し、我々は引き上げることにした。そこで陣屋が保管している書類、あるいは囲い籾などすべてを預けるから、官軍の役人に引き渡して欲しい。その役人は今日、あるいは明日にも高崎にやってくると思われるから、必ず引き渡すように」と話した。これを聞いた村役人は、「それは困る。陣屋役人が残って引き渡してもらいたい」といったが承知せず、書類の箱を押しつけ立ち去った。

そのため村役人は陣屋付村々の役人と相談し、書類などを陣屋に保管した。そして10日、通りかかった会計方御用掛の氷見善兵衛と酒井元右衛門の両人に引き渡して、責任を全うした。

このため岩鼻陣屋は、無人の陣屋となった。そこで総督府は、高崎藩に命じて当分の間陣屋に藩士を常駐させることにした。


これにより、文政10年(1827)から続いた関東取締出役管轄の寄場組合機能も、少なくとも上武州に関しては41年目にして消滅することとなります。


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3.寄居寄場騒動

東山道総督府東征の迫るなか、上武野州の各地で世直し騒動が同時多発的に発生します。赤浜村が所属する寄居寄場組合も例外ではなく、西上州世直し騒動蜂起の前日2月22日より28日の7日間、武州寄居寄場騒動が吹き荒れます。

『日本歴史地名大系』(平凡社)の「寄居村」の項を中心に、『寄居町史』[※1-693~704頁][※2-200~203頁]で補足しながら、以下で検討したいと考えます。


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(1)蜂起の要因

前述「2.西上州世直し騒動」と蜂起の動機を同じくしますが、次の2点が主要因と指摘されています。

●寄場役人がほかの寄場組合では出し渋っている銃隊要員を命令どおりに出そうとしたこと。

●前年、慶応3年の下野出流山での挙兵事件に派兵した農兵隊の入用金100両を高割したこと。


『寄居町史』に詳しい経緯が記されています[※1-696~697頁]

寄居寄場大惣代の末野村名主九兵衛の妹婿である善吉は、日頃から剣道などを学び武術の達人ということであったので、前年の野州出流辺の挙兵に対して岩鼻付取締隊が編成されたとき、九兵衛は善吉を征討軍に加えるべく派遣した。ほどなく「出流軍」は鎮定され、善吉は無事務めを終えて帰還したが、「賊徒共散乱可致間、処々へ見張可相立」という善吉の進言で村方で見張を立てることになった。ところが、この命令はどうも「御上」からのものではなく九兵衛と善吉両人の「身凌(みしのぎ)」であるという風評が流れた。

1月28日、大小惣代寄場役人一同出席の席上、この出流入用金(100両余)を高割(村高の石高割)で負担することと、農兵銃隊も高100石に3人の割合で人足負担することが寄場役人から申し渡された。この農兵人足は寄場寄場において稽古するように言われていたが、これはどうも上意ではなく役人の権威をもって命ぜられた偽りの命令に思われた。

これによると「銃隊要員を命令どおりに出そうとした」どころか、関東取締出役の要請が「高100石につき1人ずつ」なのに対し「高100石につき3人」と過剰な取立を要請していたことになります。

そして、2月15日付けで岩鼻陣屋より出された、農兵銃隊取立撤回の通達が村方に入ると、寄場村内にも騒然とした状況が表面化し、寄居寄場役人を窮地に追い込んでいきました。

なお、大惣代九兵衛は、「(2)武州一揆」で、幕府役人と結託し私欲を肥やしたことから徹底的な打ち壊しにあった人物でもあります。


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(2)蜂起から終結までの推移

2月22日早朝、今泉・飯塚・用土の3カ村の小前役人が、早鐘を突き鳴らし竹ぼらを吹立て、人数が次第に集まるなかで、正午(九つ)頃に桜沢村鎮守八幡宮の森へ集合した。

その後一揆勢は寄場役人の不正追及のため寄居寄場に押寄せた。しかし、寄場役人等はすでに逃げ去ったあとで、名主彦兵衛と組頭2、3人だけが残留している状態であった。そこで彦兵衛に掛け合った結果、出流山入用金・銃隊一件などは大惣代九兵衛ほか4人の大小惣代と桜沢村名主嘉輔らが決めたものであることが判明。他の組合村農民も集まり、赤浜村が位置する荒川右岸からも約3千~5千人が駆け付けた。

23日の夕刻、仲裁のため岩鼻代官所から川崎三郎と従者3人が到着したが、24日早暁に身の危険を感じて宿から逃走。藤田の正龍寺へ逃込んだ末に捕虜となった。

この頃用土村の一得(心学道語)が奔走し、近隣寺院の僧たちを集めて仲裁が開始された。25日・26日も交渉は続き、農民たちは寄居町の諸所に篝火を焚き夜を明かした。

27日朝、ようやく内済が成立。以下の内容の証文が取り交わされた。

①出流山出兵入用金の廃止。

②過取立分300両を組合村々へ返還する。

③大惣代九兵衛は剃髪・退役のうえ組合村より追放。

④小組惣代・寄場役人は退役。

⑤桜沢村名主嘉輔の詫書差出し。

農民が帰村したのち、岩鼻代官所の歩兵隊・農兵隊など約600人が鎮圧のため到着したが、騒動終結後のことで空しく帰陣しています。


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(3)御用留にみる世直し騒動

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①御上からの御用留

御上からの世直し騒動取締りについては、御用留に何件か記されています。以下は関東取締出役から寄居寄場組合へ出された廻状です。()内は御上から送り出した日付です。

廻状が出された10日後の3月10日に、岩鼻陣屋役人は江戸にすべて引き上げます。幕府の支配体制が崩壊しても、東征の官軍は世直し騒動に手を焼いています。以下の廻状が御用留に記されています。


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②村方からの御用留

御用留をみる限り、村方より世直し騒動に関する廻状が出された形跡は見当たりません。

関連するのではと考えるのが、上荒川村の役人から出された出銭願いの以下の御用留です。昨年12月18日から正月の間、荒川の渡し口の見張り番にかかった費用(薪・茶・油代)を人数割で出銭願えないかの廻状です。12月18日は出流山事件の直後であり、寄居寄場騒動蜂起の要因で触れた、出流軍の賊徒共が方々に散っているので見張りを立てるべきの進言による出費と思われます。


次は、今市村地蔵堂に貼られた一揆の呼びかけに応じないよう、今市村役人から周辺村々へ出された廻状です。御用留に日付が記されていませんが、3月17日付で出されたものです。前述の世直し騒動とは別な出来事ですが、当時の世相を表しています。



[引用資料]