慶応4年御用留の記述が始まる1月時点では、赤浜村は関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)の下部組織である寄居寄場組合村(よりい-よせばくみあいむら)に属し、幕府の支配下にありました。
官軍東征などで、早くも3月にその幕藩体制は崩壊します。どのような仕組みが崩壊してしまったのか、慶応4年御用留以前の歴史を検討したいと思います。
なお、関東取締出役の崩壊については西上州世直騒動と寄居寄場騒動の「2-(5)岩鼻陣屋の明け渡し」を参照してください。
検討には主に『寄居町史』[※1][※2][※3]、『高崎市史』[※4]、『群馬県史』[※5]を参考にしました。
関東取締出役は、八州廻り(はっしゅうまわり)ともよばれ、時代劇にもよく登場します。以下に概要を列記します。
●文化2年(1805)に創設された江戸後期の幕府の職名。
●勘定奉行直属下。
●関東地方の治安強化を目的として創設。
●関東代官の手付・手代の中から選任された。
・代官(だいかん)は、年貢収納その他、地方の支配に当たらせた役人。
・手付(てつき)は、代官の指揮をうけ、年貢徴収・普請・警察・裁判など民政一般をつかさどった小吏(しょうり)。幕臣から任命。
・手代(てだい)は、手付と職務内容は異ならないが、手付が幕臣であったのに対し、農民から採用された。
●幕府直轄領および私領にもその警察権を行使した。
●詰所
・文化2年(1805)創設当時は江戸と、岩鼻代官所を上州取締の拠点とした。
・文久元年(1861)には、江戸の品川・板橋・千住・内藤新宿の4宿に関東取締出役が常駐する定詰がおかれた。
『寄居町史』[※1-640頁]に創設の経緯が詳しく掲載されてます。以下に引用します。
江戸幕府の方針として関八州には強大な大名を置かず、要所に譜代の中小大名を配したほかは、幕府の御料や旗本の知行所が多かった。ところが大名領、御料、旗本知行所は諸所に分散して与えられたので、一村の中にもそれらが入り組んで混在していた。いいかえれば1村が細分化され、それぞれ領主が異なっていたのであり、このことは必然的に治安の弱体化を招いた。
畿内に比して後進国であった関東の経済的発展は、明和・安永の頃(1764~80)になるときわめて活発になった。江戸市民の生活に必要な商品は、それまで上方に依存していた木綿・菜種・醤油なども含めて、関東各地でさかんに生産された。しかも利根川など河岸場の発達によって河川の水運が開けるにつれ、江戸向けの商品生産は関東内陸部にまでしだいに地域をひろげていった。このような商品経済の発展は関東の農村構造に変化をもたらした。持ち高の多い富農層の中からは在郷商人が出現し、農間の余業とはいいながらもしだいに本格化するものもあった。
その反面、貨幣経済の浸透によって小農民の生活はしだいに困窮化していった。しかも、天明以来しばしば飢饉に見舞われたことによって、一層深刻になっていった。いきおい田畑の質入れがふえ、村落支配層や在郷商人が地主化していくとともに潰れ百姓、離村、出稼ぎなどが多くなっていった。農業労働力の減少は手余り地や荒地の増加となり、脱農、離村による無宿者、博徒の横行となった。ことに利根川筋に多くの博徒が現れた。
このような経済的変動に伴う農村構造の変化や治安の乱れに対して、領地が細分化されている関東の領国支配は弱体であった。そこで膝下の混乱を放置できなくなった幕府は、寛政5年(1793)上野国岩鼻に代官所を設置し、中山道と利根川が交差する地点を固めて、博徒・無宿者の横行や農民の不穏な動きに備えた。さらに享和元年(1801)に江戸町奉行配下の役人を公私領の別なく巡回させた。この臨時措置を制度化したのが文化2年(1805)の関東取締出役の派遣であった。
関東取締出役の組織の変遷については、『高崎市史』[※4-109~110頁]に詳しいので、以下に引用します。
文化2年(1805)6月19日、先ず2年間、4人の代官の手付・手代の中から2人ずつ選び、合わせて8人で関八州の幕府領や私領の区別なく村々を回り、無宿や悪党を取り締まった。彼らはそれぞれ小者1人、雇い足軽1人を連れて関東の各地をくまなく探索し、悪党や無宿を捕縛した。しかし、徒党を組む悪党に対して出役だけでは手に負えない場合が予想されたので、近くの領主に連絡して援助や協力を得ることができた。このようにして8人の出役が、2人1組になって関東の幕府領・大名領・旗本領・寺社領の区別なく踏み込んで、悪党の探索や捕縛をすることになった。
当初、出役は8人全員が江戸を出払って地方を巡回したり、また全員が江戸に帰ったりすることが多かった。そのため出役の勤務体制の間隙を縫うかのように悪党たちが村々をわが物顔に横行したので、本来の取締りにほころびが生じるようになった。
文化4年(1807)3月、幕府は半数の4人が地方に出張して、残りの4人は常に江戸に待機して、緊急事態の発生に備えることにした。だが広大な関八州の見回りを8人の出役だけでは手に負えない場合が多かったので、2人増員されて10人体制となった。そして8人4組の出役が各地に出張し、残りの2人が江戸で待機することにした。
天保12年(1841)5月、いわゆる天保の改革によって臨時取締出役26人が増員され、村々の巡視が一段と強化された。同時に出役の権能も拡大され、警察的機能ばかりでなく、経済的活動、あるいは当時「異病」といわれるコレラの患者の数や治療方法の調査にも関係し、病気の蔓延阻止にも一役を担うようになった。
関東取締出役を創設してから22年後の文政10年(1827)2月、幕府は関八州に「御取締筋御改革」という、45カ条に及ぶ長文の触書を公布し、文政の改革(ぶんせいのかいかく)を開始、関東取締出役の下部組織として、御改革組合村(寄場組合村)の編成を指示しました。
関東取締出役は、この改革の趣旨を浸透させるために、各地を巡回して村役人に触書の内容を教え諭した[※5-660頁]とあります。
「御取締筋御改革」の触書は、改革の趣旨をまとめた前文5カ条と、それに沿って詳細に解説した後文の40カ条からなっています。『群馬県史』に詳しいので以下に引用します[※5-660~662頁]。
●前文の5カ条
・[第1条]横行する「良民の害になる」無宿・無頼者の取締り。
・[第2条]農民が日ごろ守らなければならない「五人組帳前書」に記されている諸規律の遵守。
・[第3条]派手になってきた神事・祭礼・婚礼・仏事などの簡素化。
・[第4条]流行する歌舞伎・手踊り・操り芝居・相撲興行などの禁止。
・[第5条]ぼっ興する農村の商業などの新規開業禁止。
●後文の40カ条概略
・無宿・無頼者の「悪党共」の取り締まり(4カ条)。
・浪人・物ごい・勧進者の取り締まり(3カ条)。
・「悪党共」の追捕(ついぶ)と費用の負担(5カ条)。
・捕縛した囚人の護送諸費用の負担などの治安の維持・強化(4カ条)。
・強訴・徒党・若者の不法と脇差(わきざし)携帯の禁止(4カ条)。
・博奕・無尽・富くじの禁止(4カ条)。
・餌差(えさし)や鷹場(たかば)の規定などの農村秩序の回復(2カ条)。
・神事・祭礼・婚礼・葬礼・仏事の簡素化(3カ条)。
・村の諸費用の節約・削減による農民生活の簡素化(3カ条)。
・歌舞伎・手踊り・操り芝居の禁止などの風俗の矯正(2カ条)。
・新規商売禁止と他国商売者追い払い(2カ条)。
・諸職人手間賃の自粛などの商業に余業を加えた場合の抑圧(1カ条)。
・寄場組合村の設置と会合の規定(2カ条)。
寄場組合村の設置にかかわる条文を除けば、これまで個別に出されていた法令を集大成して示したもので、農業を基盤とする純朴な農村体制の再建を目指したものといえます。
「文政の改革」の中心となったものが、御改革組合、あるいは関東取締組合、または寄場組合とよばれる組合村組織の創設でした。
寄場組合の組織は、領主の違いなどは念頭に置かず、幕府領・旗本領・大名領(水戸藩領・川越藩領を除く)・寺社領とに関わらず、地理的に隣り合っている5、6カ村を組み合わせて小組合をつくり、さらにこの小組合を地域ごとに10前後、村数にすると40~50カ村をまとめて大組合とした。そして、大組合の中心となる村を親村、あるいは寄場とよび、主に村の石高が大きく、その地域の宿場など交通の便がよい村が選ばれた。
組合の役人は、小組合の名主の中から信用も、財産も相応にある人物が就任し、小惣代とよんだ。さらにこの小惣代の中から数人の大惣代が任命され、大組合の世話役となり、組合の運営にあたった。そしてこの寄場となった村の名主が、寄場役人となり組合村の惣代となった[※4-116頁]とあります。
御用留が記された赤浜村は、寄居寄場組合に所属しました。発足時の組合編成が『寄居町史』[※1-641~643頁][※3-6~26頁]に詳しいので、引用しながら紹介したいと思います。
以下が発足時の編成で、5~9村を一組に6小組合、全39村が所属しています。なお、最初の小組合のうち「木持(古木持含む)・内宿・白岩・甘粕・関山」の5カ村を「鉢形町之内五組」と一まとめで表すことが多く、御用留にも「鉢形村五ケ村」の表記が確認できます。
郡名 | 町村名 |
---|---|
榛沢郡 | 寄居町 |
男衾郡 | 鉢形町 |
木持村 | |
内宿村 | |
白岩村 | |
古木持村 | |
甘粕村 | |
関山村 | |
榛沢郡 | 末野村 |
男衾郡 | 折原村 |
秋山村 | |
三品村 | |
立原村 | |
西ノ入村 | |
男衾郡 | 勝呂村 |
木呂子村 | |
靱負村 | |
木部村 | |
比企郡 | 原川村 |
笠原村 | |
男衾郡 | 赤浜村 |
富田村 | |
小園村 | |
牟礼村 | |
保田原村 | |
露梨子村 | |
榛沢郡 | 小前田村 |
荒川村 | |
黒田村 | |
永田村 | |
北根村 | |
田中村 | |
菅沼村 | |
榛沢郡 | 原宿村 |
桜沢村 | |
飯塚村 | |
猿喰土村 | |
用土村 | |
今泉村 |
小組合毎に小惣代1人ずつ、大組合全体で大惣代3人を置いています。
これらについては、「文政十年、寄場組合村々取締方触の請書(安良岡正二家蔵、文書番号10)」[※3-6~26頁]の書状に詳細に記されています。前述「2.文政の改革」で紹介した通り、書状の冒頭で改革45カ条が長々と写され、各村々の知行所毎の3役人(名主・組頭・百姓代)の連名捺印、最後に大惣代3人の署名捺印で、次の4人の関東取締出役へ宛てた請書の形式になっています。
山田茂左衛門様御手付 吉田左五郎様
山本大膳様御手代 河野啓助様
同 大田平助様
柑本兵五郎様御手代 小池宰助様
この4人が改革の趣旨を伝えるため巡回したものと思われます。
同書状に記される村毎の知行で、赤浜村に接する富田村は以下の旗本8家の相給で、それぞれに名主・組頭の村役人が置かれています。
石河喜左衛門
松下内匠
久田右近
大久保一学
西村又兵衛
青山定之丞
中野七太夫
内藤主馬
年貢収納の管轄は8家相給が続くにしても、治安体制については、富田・赤浜を含めた6村の小組合を管轄する小惣代に窓口を一本化することに、文政の改革の意図は十分に感じ取れると思います。
慶応4年御用留の記載順で、1・2・7番目にあたる次の3件が関東取締出役から寄居寄場組合へ出された廻状です。()内は岩鼻御役所から送り出した日付です。
官軍東征などの影響で岩鼻陣屋役人は、この3件の御用留を最後に3月10日には江戸にすべて引き上げてしまいます。文政10年(1827)から続いた関東取締出役管轄の寄場組合機能も、少なくとも上武州に関しては41年目にして消滅することとなります。
この組合村の組織は明治政府のもとで、大区・小区制に引き継がれて行きます。
幕府の岩鼻陣屋機能消滅の経緯については西上州世直騒動と寄居寄場騒動の「2-(5)岩鼻陣屋の明け渡し」を参照してください。
[引用資料]