慶応4年御用留概要


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1.慶応4年赤浜村御用留の概要

赤浜村で記された、慶応4年(1868)御用留の形状は、半紙竪帳(縦帳)で、121帖(242頁)。御用留の用件は長短ありますが、表紙を含めて106項目(画面)に分けて影印・翻刻(読み下し)・解読を紹介しています。

記載期間は、1月13日に岩鼻代官所から出された書状を皮切りに、8月まで続きます。8月で終わっているのは、9月8日をもって慶応から明治に改元されたことが関係していると思われます。

以下で、御用留の内容を概観したいと思います。


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2.幕藩体制の終焉

慶応4年御用留の記載順で、1・2・7番目にあたる次の3件が関東取締出役から寄居寄場組合へ出された廻状です。()内は岩鼻御役所から送り出した日付です。

官軍東征などの影響で岩鼻陣屋役人は、この3件の御用留を最後に3月10日には江戸にすべて引き上げてしまいます。文政10年(1827)から続いた関東取締出役管轄の寄場組合機能も、少なくとも上武州に関しては41年目にして消滅することとなります。

赤浜村が組み込まれていた幕藩体制の仕組みについては 関東取締出役と寄場組合村 を、幕藩体制を担った岩鼻陣屋機能消滅の経緯については 西上州世直騒動と寄居寄場騒動 の「2-(5)岩鼻陣屋の明け渡し」を参照してください。


以下の3件は、寄場組合村から岩鼻陣屋役人に宛てた書状継送りの御用留です。()内は寄場組合から送り出した日付です。封印されているため内容は確認できませんが、いずれも満足な返書は受け取れなかったものと考えます。



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3.戊辰戦争(官軍の東進)

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(1)東山道総督府

3月に入ると、赤浜村にも戊辰戦争が到来します。

1月9日、岩倉具視(ともみ)の次男である岩倉具定(ともさだ)を東山道鎮撫総督に任命、21日に京都を出発します。2月1日、大垣に到着。態勢を整えたうえで20日に前進開始[※1-155~156頁]。22日に加納駅(岐阜県南端)に達して軍議のうえ、新たに斥候隊を編成して、おおむね数日行程前方に出して敵状を捜索させたとあります[※1-156頁]。斥候隊は問題と思われた碓氷峠も滞りなく通過、3月5日には高崎に到着[※1-165頁]

以下の御用留は深谷宿に入った斥候隊から、3月6日を皮切りに出された触書です。

総督府本軍は7日夕刻に安中宿[※2-844頁]、8日に高崎に到着、石上寺に本陣を置きます[※2-年表85頁]。9日高崎を出立。当初は倉賀野宿で昼食、本庄宿泊の予定だったが、先を急ぎ、倉賀野宿で休憩、新町宿で昼食、熊谷宿に到着[※2-846頁]。深谷宿は本庄と熊谷の間にあり、御用留に記された通り、9日に深谷宿を通過したようです。予定が1日早まったことで、万右衛門の慌てぶりが[3月6~9日]東山道総督府通行に関する一連の触当に表れているようです。

その後、11日に桶川宿泊り、翌日大宮宿を通過して蕨宿泊り、13日に板橋宿到着[※3-81頁]。13日に総督府本軍が板橋宿に入るまで動員要請が続いたと考えられます。


以下は、3月10日夕刻に上板橋宿より発せられた廻状で、東山道総督府通行で、翌11日から東山道(中山道)下板橋宿へ人馬提供のため、川越往還への継立が出来なくなることを伝えたものです。


次の御用留は官軍のものではありませんが、江戸池之端、慶安寺(けいあんじ)役僧と思われる人物が、長岡の長興寺(ちょうこうじ)までの宿継を依頼する先触です。この書状のなかで、3月8日から13日まで小川駅大塚村の大梅寺(たいばいじ)に5泊6日滞在します。その理由が分からなかったのですが、8日は東山道総督府が高崎到着、板橋宿への進軍が13日まで続きます。宿場の混乱をやり過す意図があったものと思われます。


また、東山道総督府通行の際、本田・畠山両村が官軍御用に従わなかったので、取り調べのうえ処分を下すという村方騒動がありました。その顛末を記したのが、以下5件の御用留です。


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(2)北陸道総督府

東山道の次に、北陸道総督府から人足差出の触当が届きます。

『戊辰役戦史』の記述を借りると、北陸道官軍の進攻はまことに遅々だったとあります。朝廷は、1月9日に高倉永祜(たかくら-ながさち)を北陸道鎮撫総督に、四条隆平(たかとし)を副総督に任命。高倉総督一行は1月20日に京都を出発、25日に若州小浜に到着、この地で10日を費やし、2月5日に前進開始も敦賀に滞留。6日に北陸道先鋒総督と改名。2月15日福井着、18日出発。3月2日金沢着、8日出発。3月15日高田(現上越市)着、19日出発。江戸到着は4月4日[※1-172~173頁]であったとあります。

以下の4件が、北陸道官軍通行に関する御用留です。

引き続き深谷宿問屋の万右衛門が惣代の役割を担ったようです。東山道総督府通行では後手後手に回った経験からか、[3月25日]北陸道官軍通行につき、一連の触当で、万全の準備を整えた矢先、当の官軍は [3月26日]北陸道官軍 軽井沢宿で逗留のため人足差出待機 と軽井沢宿で逗留とはぐらかされ、人足を割当てられた各村の役人、旗振り役である深谷宿役人の心労は計り知れなかった思います。

そして、いよいよ江戸入りの行程でも中山道宿場を大混乱に陥れたようです。[3月30日]北陸道官軍 明4月1日、一度に通行のため人足増員 で詳しく紹介しています。


次は、4月2日に高崎藩士が野火止陣屋出立、高崎城内への継立依頼の先触ですが、大和田宿問屋の添書きで継立を延期しています。北陸道総督府通行の影響と考えます。



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(3)東海道総督府

東山道・北陸道と続き、今度は、4月17日に東海道総督府より兵糧と金納の触当が届きます。「村々・組合村々とも高100石につき白米3俵・金3両を、石高の証書を添え4月末までに江戸品川宿の官軍賄所へ納めること。遠方で米運搬が困難な場合は、その時の相場で金納でも構わない」といった内容です。しかし、5日後の22日に「必要な金子は調達したので触当は不要」の取消連絡が届きます。

東海道総督府への兵糧と金納触当は『寄居町史』[※4-11~12頁]・『小川町の歴史』[※5-71~75頁]に村々の配分まで取決めた御用留が記されていています。それから判断すると上納したと取れますが、取消連絡の記載が当該町史に見当たりません。

当方で取消連絡が確認できているのは、『田中千弥日記』の「四月廿四日官軍総督府会計方ゟ、先日之御用米金当分其近辺二而御整ニ付、御見合之趣御触有之」[※6-38頁]の記述です。上納したのか・しなかったのか?研究の余地がありそうです。


赤浜村は兵糧・金納触当を免れたと思われるものの、翌閏4月に東海道大磯宿より、赤浜村はじめ5カ村に対して当分助郷(当分の間の助郷)要請の書状が届きます。

20里以上も離れている大磯宿への助郷とは法外な要求に思えるのですが、過去に実績がありました。『寄居町の歴史』に「慶応期(1865~8)に入ると、交通量の増大した東海道宿駅の負担を緩和するため助郷村はさらに拡大し、慶応2年(1866)に赤浜・白岩・小園など男衾郡の22カ村が大磯宿(現神奈川県大磯町)の助郷村になった。驚いた村では免除の歎願を行ったが免れず、これを金納している」[※7-183頁]と記されています。東山道・北陸道総督府からの度重なる負担の後に、さらに大磯宿への助郷とは今回も驚いたことと思われます。人馬を差出したのか?金納したのか?御用留にその結末が記されていないので不明です。


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(4)東北へ進軍

次は、官軍の進軍を記した御用留ではありませんが、4月27日に村上藩士から出された先触です。中山道で江戸屋敷まで通行予定だったのが、熊谷宿から先が継立不可能となったため、急きょ脇街道である川越往還に継立を変更する知らせです。『大宮市史』にその理由と思われる「4月28日には板橋宿在陣の東山道総督が、宇都宮に拠って抵抗を続ける旧幕府軍攻撃のため総督府を忍城に定めようと大通行があった」[※3-86頁]という記述があります。板橋宿から中山道を下り熊谷宿で行田忍城に向かう官軍の大通行と鉢合わせとなっては、脇往還に逃れるしかありません。



次の2件は、忍城に本陣を移した東山道総督府から出された助郷要請の御用留です。赤浜村にどの程度の負担があったのかは不明です。



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(5)戊辰戦争関連

その他、戊辰戦争関連の御用留を以下にピックアップします。

[3月25日]北陸道官軍通行につき、一連の触当 で「兵食料人馬賃之義者追而御下ケ可相成事」「朝廷ゟ御下ケ無之ニ付取調付次第」と、村方の経費に関して後に朝廷から下賜される旨が伝えられています。次の2件は、下げ渡しの手順を指示した御用留です。



次は、渋沢栄一の従弟である渋沢成一郎が率いる振武軍(しんぶぐん)と、上野戦争の彰義隊敗残兵が合流して、官軍と戦った飯能戦争の事後処理を忍藩士が指示した御用留です。



次は、上総請西(じようさい)藩主の林忠崇(通称:昌之介)が蒸気船で逃走中のため、燃料の石炭売買・運送を取り締まる触書です。




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4.岡部藩統治

『高崎市史』の記述に「3月16日になると、東山道総督府は、支配者のいない幕府領と旗本領の治安を維持する目的で、上州諸藩がそれぞれの村を担当し、警備を厳重にするよう命じた。そのため諸藩は、前橋に集まって、担当する村方の区分について話し合った」[※8-734頁]とあります。これは岩鼻陣屋がなくなり、また旗本の行方も分からなくなったので、主なき村々の支配ができなくなり、治安の乱れが甚だしくなったからで、4月7日に前橋で会議が開かれ、諸藩の持ち場村を定めたとあります[※2-847頁]

以下の御用留から、赤浜村を含めた20数カ村は岡部藩の管轄となったものと推測されます。

[3月26日]岡部役場へ呼出 村々の領主・地頭・村名・名主取調 は、4月7日に行われる会議の前準備として岡部藩が22カ村の支配体制を取り調べるため、岡部役場に廻達を指令したものと考えます。

岡部藩の通達は岡部役所から発せられ、折原村名主の庄右衛門が親村として村々への廻達を担ったようです。[6月22日]折原村名主庄右衛門 岡部役所へ御役御免の申し立て で、庄右衛門は御役御免を願い出ていまが、これ以降も新政府からの布告が、差出人庄右衛門で廻達されています。残念ながら御役御免は叶わなかったようです。

この当時の岡部藩統治に関しては、市町村史の史料が少ないため研究の余地があると考えます。



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5.明治維新政府の統治

『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)に「慶応4(1868)1月13日、太政官代が置かれ三職 (さんしょく)七科の制が発足(ほどなく三職八局の制に変更)。ついで閏4月21日、政体書を発布して立法・行政・司法の三権に分け、議政官 (ぎせいかん)以下の七官を置き、これらの中央官庁を太政官と総称した」とあります。

政体書が発布された、閏4月より太政官からの布達が御用留に記され始めます。以下にピックアップします。


[7月5日]閏4月布告の一連の廻状到来 神仏分離令他 は、閏4月に発布された7件の触書が、おそらく岡部藩を通して7月にまとめて廻達されたものです。7件の布達の内容を以下に列記します。

①関東監察使下向

②太政官代を宮中に移す

③兵庫裁判所より人相書

④陸軍編成

⑤朱印状回収命令

⑥金札発行の布告

⑦神仏分離令

「⑦神仏分離令」など、7月の廻達を待たずに赤浜村へ情報が入っていたと思われますが、太政官で東国へ早急に布達するもの・急がないものを選別していたことが御用留から伺えるのではないでしょうか、この点についても研究の余地があると考えます。



[引用資料]